代々受け継がれた由緒ある祭り
花輪ばやしとは
「花輪ばやし」はどんな祭りなのか。 この祭りを始めてご覧になる方のためにその概要を説明しましょう。
花輪ばやしは市街地の東約3.5キロに位置する幸稲荷神社(さきわいいなりじんじゃ)の「祭礼ばやし」として現在に引き継がれており、この祭礼は、古くからの花輪の人々の厚い進行とともに「花輪祭礼」「稲荷神社祭典」「豊年祭り」「豊年花輪祭り」「花輪祭」などと様々な呼称で綿々と引き継がれ、祭礼ではお囃子が奉納されてきました。
幸稲荷神社の祭礼で、お囃子がいつの頃から奉納されるようになったかは定かではありませんが、伝承されている曲のいくつかは江戸時代前期以前の古い時代から伝えられてきたといわれています。
花輪の歴史
花輪ばやしに関するもっとも古い記録は江戸中期1765年(明和2年)の尾去沢銅山の休日に関する定め書に「花輪稲荷、毛馬内月山と隔年之祭礼也。尤花輪ハ七月廿日、毛馬内ハ六月四日なり。」として残されています。
また、1802年(享和2年)の『南部藩家老席日記』に「花輪鎮守稲荷七月一四日より廿日迄神馬に付き当所若者共晴天 右草取り角力並びに芝居興行仕りたき旨 御代官口上書をもって申し出 廿三日(六月)願いの通り申しつくべき旨 御目付をもって 之を申し渡す」(括弧内筆者)とあり、祭りには相撲と芝居も行われていたことがわかります。
江戸時代の「南部藩家老席日記」や尾去沢銅山の管理に携わった役人の記録にも、その記録を見ることができます。
明治時代には「本屋台」「サギリ屋台」そして時には武者などを飾った約10メートルもの「人形屋台」と様々な屋台が繰り出されて、屋台や舞台で芸者衆が芸を披露するなど賑やかさを増していきます。かつては六日町・谷地田町・大町の3町が屋台を繰り出しましたが、他の町内からも屋台が出されるようになりました。
産土の神を奉る幸稲荷神社は鎌倉時代1204年(元久元年)の創建と伝えられ古来近郷の信仰を集め祭礼はもとより、元朝詣りには、多くの老若男女を集め年々栄えております。毎年の初午には、この地に生まれた厄年の人々が一同に会して産土の神の前にて厄払いの儀式が盛大に行われていることは他に類を見ない程です。
祭典は、お盆明けの8月16日本殿から、神官、氏子総代に守られたお御輿が、直径1m余りの大太鼓を従えて町内を一巡りして「御旅所」に安置されることから始まり、20日本殿へ還幸されるまでの5日間行われます。
花輪ばやしは、その中の19日・20日の両日幸稲荷神社・産土の神に奉納するため盛大に行われているものです。青垣山に囲まれた城下町は祭り一色に彩られ、近隣はもとより多くの観光客で賑います。
昭和以降、花輪以外の地での演奏やラジオ放送の機会が生じ初めて、花輪のお囃子として「花輪ばやし」という呼称が生まれました。
戦後、県外での演奏も増え、お囃子としての花輪ばやしの呼称は全国的なものになりました。
1977年(昭和52年)フランス・ニースのカーニバル公演に始まり、以後サンフランシスコのさくらまつりパレード、中国・上海国際交流フェスティバル、アメリカ・ミネソタでのアメリカジャパンウィークと海外でも花輪ばやしは高い評価を受けました。
1978年(昭和53年)秋田県無形民俗文化財に指定。
2014年(平成26年)「花輪祭の屋台行事」として国指定重要無形民俗文化財に指定されました。
2016年(平成28年) 「山・鉾・屋台行事」の1つとしてユネスコ無形文化遺産に登録されました。